2014-05-13

黒瀬陽平『情報社会の情念—クリエイティブの条件を問う』発刊記念イベント(2014/2/8)を振り返る

もう一季節も前のことですが、数十年に一度という大雪に見舞われた2月8日(土)開催された「黒瀬陽平『情報社会の情念—クリエイティブの条件を問う』発刊記念イベント」この度、黒瀬さんがキュレーションを行うLITTLE AKIHABARA MARKET ― 日本的イコノロジーの復興』(ROPPONGI HILLS A/D GALLERY 5/10-5/25)の開催にあわせて、イベント企画者である石田&新美共著のレポート記事で、あの日のイベントの様子をお伝えいたします。

(2月8日 am11:00頃の様子)

松本市内は朝から凄まじい雪でした。写真の時間より半日経ち、夜になってもまだ雪が降り続ける中、電車はほとんど進まず…21時半を回る頃に、黒瀬さんなんとか会場に到着。

到着してほどなく、22時前にトークが始まりました。まだ雪がやまない中、松本市街地へのあらゆる交通手段がなくなっている中、街中に住んでいる人や、学生を中心に15人ほどのお客さんが残ってくれていました。本当にありがとうございました。

(黒瀬陽平氏)

では、ここからはトークの中で印象が強かったお話をダイジェストでお伝えしていきます。

①助成金アートと<みんなの意見>

「日本では地方でも都心でも、現代アートを続けていくためには助成金に頼らざるをえない状況がある。でも、助成金をもらってアートをやろうとすると、<みんなの意見>に従わなければいけない。つまり、アートはこういうものだ、という理念に照らし合わせて評価するんじゃなくて、住民の反応がそのまま事業評価につながって、その基準でアートが判断されてしまう。クレームでもつけられてしまえば、それは端的にマイナスの評価ということになる。だから必然的に、クレームがこないようなアートになってしまう。しかし、それは果たしてアートなのか? (...)<みんなの意見>をすぐ集計できて、可視化して、それと照らし合わせて判断ができるっていうのは、まさに現在のネットで起きていることと同じ。でも、アートの歴史はそれと同じ理屈では動いていない。<みんなの意見>に疎外されないようなアートの理屈を考えなければ、と思って『情報社会の情念』を書いたというところがある。今日はその話をしたいと思います。」

社会に求められるアートでなければアートでないのか?実に、単刀直入な問題提起だと思います。特に地方では肌で感じる、助成金に頼ったアートの問題と絡めて、アートとその制度の問題とインターネットの状況を照らし合わせた視点が提示されました。この場では無難な話は絶対語られないであろうという予感が高まる会場!実際の現場と情報社会での動向は全く別次元の動きではないという問題設定にぐっと関心も高まります。


②カオスラウンジの活動 オタクとネットの関わり

「<アート>は歴史性と継承性によって築かれている。でも、日本人にとって<アート>というハイカルチャーが輸入品であり、距離感があるものだということは美術史的にも事実で、一般論としても認めるしかない。<日本美術>の歴史を見ても、大陸からの強烈な影響を受けて、歴史意識がしょっちゅうブツ切りにされている。それでも、日本で現代アートをやろうとする時に参照できる歴史を探してみると、やはりオタクカルチャーだった。村上隆さんが主張したように、オタクカルチャーには短いながらも強固な歴史性と継承性がある。オタクカルチャーの歴史を、過去へ延長することによって日本のアートの歴史が描けるかもしれない。ぼくはカオスラウンジという活動によって、そこにネットカルチャーを接続しようとしました。」

ここでは黒瀬さんの問題意識が提示された冒頭に続いて、そこに至るまでの彼の活動の経緯が紹介されました。黒瀬さんは、日本の美術・アートの連続した歴史を持たない状況とは対照的な、「日本のオタクと呼ばれる人たちが積み上げてきたもの」に惹かれたそうです。ネット独特のコミュニケーションをうまく使って活動をしている藤城嘘(注1)さんとの出会いもあって、このオタクカルチャーへの関心に加えてネットという要素を取り込んでカオスラウンジの活動に合流していくことになったそうです。彼の名前を一躍有名にした「カオスラウンジ宣言」。そこにはpixivやニコニコ動画といったコミュニティをつくるウェブプラットフォームの興隆に対しての複雑な思いが背景にあったそうです。つまり、ウェブ上の新動向をたしかにおもしろいと思いつつも、同時にプラットフォームの方がコンテンツ(作品)の性質を決めていくようになるのではないか、という懸念があったそうです。だからこそ、プラットフォームの設計を工夫してクリエイターを排除しないような仕組みづくりができないか、またクリエイターがプラットフォームの性質に自覚的にコンテンツを創っていくことはできなかという考えを持つようになったそうです。「カオスラウンジ宣言」は、ネットカルチャーという新しい場の台頭の中で、なんとか日本の表現活動の枠組みを作り直そうとする取り組みだったのですね!

しかし、彼が活動を始めた以降も、2010年までにビッグデータを用いたプラットフォームの優位はますます進み、データマイニングに基づいたマーケティング戦略が支配力を強め、その結果みんにとって快適なコンテンツがどんどん増える事になる時代が訪れます。それは極端に言えば「クリエイターは要らず、プラットフォームの設計者が求められる時代」ともいえます。つまり、予想外なものはどんどん排除されるような世界が加速し、アーティストやクリエイターが疎外される状況が訪れたのです。amazonの「これほしいかも機能」のように、個人向けにパーソナライズされた情報だけが提供される「エンドレス・ミー」(イーライ・パリサー)と呼ばれる世界は、偶然を徹底的に排除して必然だけで構成されるので、「全く新しいもの」が生まれてくることはきわめて難しくなりました。このままでは必然の繰り返しが行き詰まりになったときに、どうしようもなくなってしまう。だからこそ、その構造に突破口をあたえるようなコンテンツ、アートが重要になってくるという危機感が黒瀬さんの中には募ったそうです。そこで、黒瀬さんは2000年代に生まれたものの中で、時代の状況を自覚的に反映しているコンテンツを探しました。結果、黒瀬さんが着目した作品は『らき☆すた』と『仮面ライダー・ディケイド』でした。

ここで、会場のみんなで「仮面ライダー・ディケイド」の一場面を鑑賞。フォルム自体がゲーム盤のようになっている仮面ライダーディケイドコンプリートフォームは、まさに「プラットフォーム」でしかないとのこと!クリエイターの美意識によってつくられる従来の表現に対して、これはまさに消費者のアノニマスな欲望が集約して生まれたデザイン性との解説。パッと見わかりやすい事例紹介に盛り上がる会場!

③欲望を平均化するプラットフォームに別の角度から
「プラットフォームというのは、基本的に多くの人に開かれるべき、という考え方です。もちろん、クローズドなプラットフォームもありますが、データマイニングによる運営を考えると、集まるデータは多ければ多いほど精度が上がる。したがって、多くの人が参加するプラットフォームは強力な<正しさ>を持つことになります。しかし、データマイニングによって行なわれていることは、いわば欲望の平均化です。多くの人の行動データを取り、欲望を平均化していけばいくほど、そこには凡庸なものが残ります。そこに運営論のジレンマがあるということを、拙著では書きました。しかし、ソーシャルゲームのヒットなどの現象が露呈させたのは、人々は凡庸なものを消費してそこそこ満足してしまっている、という事実。そういう状況のなかで、アーティストは何を示せるかということを考えているんです。(...)平均化された誰のものでもない凡庸な欲望、つまり<みんなの意見>が今、統計学的な<正しさ>のもとに可視化されて、ぼくたちの目の前にある。重要なのは、それを正解として見るのではなくて、スタート地点だと考えることだと思います。かつてなく鮮明に可視化された<みんなの意見>に対して、ひるむことなく別の角度から表現をぶつけられるのがアーティストの役割なのではないか、と。(...)拙著では、いま現在の<みんなの意見>とは異なる<正しさ>をどうやって調達するか、という意識で歴史を遡って岡本太郎や寺山修司を扱いました。」

ここでレポーターが語ることはないでしょう。世の中が平均化するときに別の角度から意義を唱えられるような異物の存在の必要性。アーティストやクリエイターってもう意味ないじゃん、というニヒリズムを脱出する上でとても重要な話ですね。共感!

④現代美術の話
「ある種の歴史性とか文脈とかコンテクストを引き継いでいくことは、すごく尊いことであると同時に、閉じたゲームでもある」

休憩を挟んだ後半は、20世紀後半の美術の展開が歴史の中で非常に特殊な形態であったことに触れつつ、純粋な美術という領域は専門的なひとつの業界だということ話からはじまりました。続いて棋士の名人戦のビデオを鑑賞。ある業界の天才の凌ぎ合いとそれを囲む専門家を例にして、ひとつの業界の発展というのはそこでしか通用しないようなある種のゲーム性に根付いているというお話をしてくださいました。「閉じたゲーム」だけど「尊い」、ということが「将棋」という至高の趣味の世界と並べられることでよくわかりました。


⑤震災と炎上
「<取り返しがつかないこと>について考えている」

黒瀬さんにとって、2011年の震災と、ネット上で巻き込まれる事になった炎上は、「同時期の経験だった」そうです。その二つの起こってしまった事実は、半永久的に消せないという共通項があるという思いが残ったそうです。そのとき黒瀬さんが見直したアニメは敬愛する2人の監督、宮崎駿の『もののけ姫』と庵野秀明の『旧劇場版エヴァンゲリオン』でした。黒瀬さん曰く、2人に共通するのは、世界やオタクに対する愛情をもち、それに寄り添いながらも、積極的に<最悪の未来>を描いている点だそうです。『もののけ姫』も『劇場版エヴァンゲリオン』も取り返しのつかなくなってしまった未来を描いていて、そこに生きる人を描いている、ということが黒瀬さんのその時の心境と重なったそうです。可能性としてはオタク的文法を使ってオタクにとって最高の未来を描くこともできたはずなのに、あえて最悪を描くことの意味はなんなのか?この2作品を振り返って、「最悪」の中での「最高」の状態を考えるということの可能性を感じたそうです。そこから、オタク文化が最悪の結末を迎えたとしても、それでも自分たちの文化に向き合い続ける「最高」のオタク像というものが浮かび、その興味が実際に「カオスイクザイル」(注2)や「リトルアキハバラ」(注3)という展示の企画につながっていったそうです。なるほど、「最悪」な状況を認めて、あるいはそう仮定して、そこからどうするか考えるか、ということですね。確かに『もののけ姫』にも『劇場版エヴァンゲリオン』にも、一種の救われなさがあります。それでも、そこに生きる人を考えると、黒瀬さんの著書で語られる「両義性」という言葉とのリンクが見える気がします。こんなお話から、もしかしたらネットや展覧会には、最高/最悪の真逆の状態を映す鏡のような機能があるのかもしれないと思い、もし最悪の状態が映った鏡なら自分はどんな風に振る舞うか、そんなことを考えました.

⑥歴史のループから脱出する
「歴史は繰り返すという言葉があるが、こういう福島第一原発観光地化計画(注4)のようなことをいうと、必ず「それは過去にもあった」という批判が出てくる。(...)でもぼくは、反復や繰り返しそれ自体が悪いとは思わない。世界はそもそもループしている。今の何かは、過去の何かに似ていて当然で、それを指摘して批判に変えるだけでは何の意味も無い。(...)大事なことは、今がどのスパンのループで、<何週目>なのかを見極めること。そして、前回のループと異なる<分岐>を見つけ出し、ズレを生み出すことです。(...)ただ単に過去の繰り返しを生きている、と捉えることと、ループのなかで前回と違う<分岐>を生きようとすることは、全然意味が違うと思うんです。」

これは、最初の話とはっきりとリンクしている話だと思いながら聞きました。データを集める技術が発達して、いろんな情報が統合され、答えがどんどん「平均」の方に近づいていく状況に絶望するのではなく、その状況を逆手にとって、そこからスピンアウトする手法として情報やそれを基にした枠組み(プラットフォーム)を使うということ。そして、そこには終始一貫して話されていたような、個別のコンテンツの力に期待しつつ、それが生まれてくる土壌を作るという話に繋がっているのだと思います。

全体として、黒瀬さんがネット、オタク、アートへの人並みならぬ愛情を持ちながらも、そこに対して湿っぽい情でこだわるのではなく、社会に対して実際的な役割を担うものとなるための理論的な補強を目指している姿勢が強く伝わってきました。混沌きわまりないテン年代のアート、批評、鑑賞の形態を考える道具立てとしても、また従来の美術批評からこぼれ落ちるような領域にそそがれたまなざしとしても、もっと広く話し合われて行くべき論点がつまった3時間でした。

終演時間は、25:00…黒瀬さん、そしてこんな時間まで残ってくれたお客さん、本当にありがとうございました!

注1)藤城嘘:の創設メンバーで同集団の主要作家のひとり。pixivを中心に他の作家を巻き込みながら創作活動を続ける。作家プロフィールhttp://chaosxlounge.com/artists/uso
注2)「カオスイグザイル」3.11震災直後の展覧会。http://chaosxlounge.com/chaosexile/
注3)「リトルアキハバラ」:国が滅びアキハバラに住めなくなったオタクたちが国外脱出し、亡命先でアキバ文化をよりアングラに、より独特に発達させてくという近未来をベースコンセプトに組まれた展覧会。
注4)福島第一原発観光地化計画:原発を観光地化することで復興を計ろうという企画。思想家であり作家でもある東浩紀が中心となって取り組んでいる。